香川の方言で、「おとっちゃま」という言葉があります。最近はあまり聞かなくなった言葉ですが、「臆病者」とか「小心者」、「恐がり」といった意味で使われ、あまりポジティブな印象はない言葉です。
私自身、昔から「おとっちゃま」とよく言われてまして、事実、お化けとか暗闇が恐い子供でした。(今でもあまり得意ではありませんが……)
標準語で「臆病」といっても、やはりいい印象を持つ人は少ないと思います。特に男性にとっては、男としてのプライドを否定されるような気持ちにもなりますし、勇気がない、逃げる、頼りにならない、といった連想がされてしまうこともあるでしょう。決定的にネガティブなワード、それが「臆病」という言葉なのでしょう。
しかし「臆病」ということは、本当に駄目なことなのでしょうか。実は過去の逸話や文献を見てみると、そう悪いことでもないのではないかと思えてくるのです。
戦国時代、ある大名が幼いころ、その臆病さを家臣達の前で露呈してしまうことがありました。それを恥じて泣き出したいのをこらえていた彼に、祖父はこう言います。「臆病でなくては国は守れない。上に立つ者は臆病でちょうど良いのだ」と。「臆病こそ美徳」というエピソードです。
徳川家康も「世に恐ろしいのは、勇者ではなく臆病者だ」という言葉を残しています。「一時の戦いで勝つのは確かに勇者かもしれないが、最後には様々に策を巡らせ、手を打っておく臆病者の方が勝つ」と読み取れます。この言葉は複数の意味に取られることがあるため、この解釈が必ずしも正しいとは言えませんが、かの項羽も連戦連勝の勇者であったのに、最後には臆病者(と思われていた) 韓信やそれを率いた劉邦に敗れました。勇者だけでは必ずしも最終的な勝利は納められないという事ではないでしょうか。
また、フィクションの世界ではありますが、かのゴルゴ13も自身を「ウサギのように臆病」だと認めていたりするなど、命がけで戦う時代・職種においては、臆病であるからこそ生き残れる・最後に勝つということがうかがえるような言葉ばかりだと思います。
では近年だとどうかといえば、小説家の内田百間氏が「臆病という事は不徳ではない。のみならず場合によれば野人の勇敢よりも遥かに尊い道徳である」と語っています。やや趣は異なりますが、Intelの首脳陣は自社のことを「パラノイア(偏執的)」と公言し、他社に負けないように様々な手を打つ事で有名で、それは裏返せば「臆病」であるからこそ至った思想ともいえるでしょう。
このように、臆病であるからこそ至ることのできる考え方やスタイルというものもあり、それは決して悪いものではないのだということを、(主に自分の名誉のために) ここに述べておきたい次第であります。
言い換えのようになってしまいますが、「臆病」とは、「慎重」かつ「冷静」に、「調査」・「分析」・「判断」ができ、その結論に従ってそれを遂行できる能力、といえるのではないでしょうか。また敵を作って身を脅かされると困りますから、各所への根回しや調整・気遣いができるという、八方美人さも備えています。こう書き出してみると、とてつもないマルチスキルを持つプレイヤーに見えてきますね。
実際のところはそこまでハイレベルな「臆病者」は少ないのでしょうが、自分は臆病で……などと悩んでおられる方は、それを欠点と考えて矯正しようとする方向に力を注ぐのではなく、長所として活かすスタイルの確立に力を注いだ方が、無理なく強いスキルへと成長させることができるのではないでしょうか。
学校の勉強は100点が上限ですから、全教科の底上げをする方が得です。しかし社会に出たあとはスキルを点数で計れるわけではないですから、短所の底上げをするより長所を伸ばした方が有利です。それをさらに推し進め、短所と思っていたことを長所のひとつに転換し、それに付随するスキルを伸ばせれば、もともとの長所もより生きてくるでしょう。
以上の論を根拠としまして、私は今後も「永遠のおとっちゃま」として、臆病なまま世の中を生き抜いていきたいと思います。ヤバくなったらすぐに逃げだしますので、あまり期待はせずにいただければ助かりますが。
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